カトリーヌ・ドヌーヴを含め100人の女性が主張したこと: 極東ブログ
ハラスメント・ハラスメントという言葉を見た時、ハラスメントの終焉が始まったな、と思った。今回のこの宣言は、終焉も終わりに入ったな、と思う。
ハラスメントというやり方は、嫌だと思うことを嫌だと言うことだった。それは、セクハラやパワハラにおいて一定の成果を出した。だけど、行き過ぎた。嫌だと言うことを超えて、排除しても良い、という感覚が生まれてきた。無意識なんだろうが、排除する言葉が生まれた。
「キモくて金のないおっさん/おばさん」という言葉がある。なぜ「キモい」とつける必要があったのだろう?「金のない」というだけなら、ただの貧困問題であったのに、「キモい」とつけたがために、話は複雑になった。
「生理的に無理」という表現もある。「キモい」もそうだんだけど、これらの表現を使った瞬間に「排除しても良い」という雰囲気を感じる。だけど、それは差別だ。
差別じゃないよ、と言う人もいるだろう。だけど、突き詰めていくと、キモいやつにチャンスはない。だから「ただしイケメンに限る」と揶揄される。
嫌なことを排除し、好ましいものだけに囲まれていれば楽ではあろう。だけど、嫌なものを社会的に排除しようとするなら、それは他人の権利を侵害する。非実在青少年まわりでは、よく表現の自由とかち合っている。
嫌なことを嫌だと言うだけであれば良かった。いや、言っているのだろうか?嫌だということを直接言えないから、陰で排除するのか。
駄々をこねるだけなら、子供と扱われる。嫌だと思ってもやらなきゃいけないのが大人だと考えられているからだ。女性の賃金が上がらないのは、結局のところ見くびられているからだろ?生理的に無理?なら、理性的に努力しろ。人間だろ。
女性達が声をあげたのは、駄々をこねる女達がいることが、自立したい女性にとって不利益なるからだ。 自立には、選択と責任が伴ってくる。それは楽な話じゃないんだよ。
人により思うところはあるのだろう。議論の果に、変化するだろう。その結果、どうなるかはわからないけど、フェミニズムは新しい局面を迎えるのだろう。私はその変化を歓迎したい。
インターネットは世界を変えたか?
インターネットが面白くなくなった、という話がある。
詳細は、まぁ、いろいろあるにせよ、根本的には、インターネットが世界を買えなかった、というとことにあるのだろう。
インターネットが普及を始めた頃、インターネットが世界を変える、と言われた。
でも、世界は変わらなかった。
確かに、便利にはなった。
だけど、その便利さはネットに繋がるところでしか発揮されない。当然だけど。
そして、ネットに繋がるところは、人口カバー率98%。
人口密集地か、せいぜいその周辺。
ネットで注文すれば、翌日にはモノが届く。
それは、物流システムに依存しているから、都市から離れられない。
そして、モノが届けられるためには、宅配サービスが必要だが、キャパシティの限界が見えてきている。
送料がコストとして無視できなくなってきている。
が、そうなると小売店との差別化は難しい。
インターネットが流通の中間層を排除し、モノが安く早く届くと言われた。
確かに一部に排除はされたが、代わりにインターネットサービスが必要になった。
小売は、個人にモノを届けるというのは、そう容易いことではなかった。
店舗を持たなくても商売ができるというインターネットの利点は、もはや無い。
ついでに言えば、ファミレスは24時間営業をやめ、コンビニも追随しようとしている。
人は夜に寝たほうがいいことが分かってきてる。
24時間なんて働けないのだ。
僕たちは、エネルギーを無尽蔵に使えるようにはなっていないし、肉体という動物の枷からも逃れられていない。
まぁこれは、インターネットの守備範囲とは言えないかもしれないけれど、インターネットでは世界が変えられなかったのは確かだ。
一般に、インターネットに求められたのは、世界を改変することではなくて、便利さだった。
便利さとは、スピードだ。
インターネットは、情報の伝達速度と量を増加させた。
それは、歓迎された。
メールからケータイ、LINEへ。
即時に届くことが重視された。
メールがすぐに届かないと文句を言う人がいた。
LINEでは既読がつかない、返事がないと文句を言う。
スピード、スピード、スピード。
通信速度の向上は、返信の速度を上昇を要求し、返信の速さは次の展開を急がせる。
結果、仕事量は増大する一方だ。
インターネットは速度を速め、それは結局のところ、仕事量を限界まで増やし、世の中を急速にブラック化していく。
そうして、増加する情報量と、それに伴う仕事量の増加に、耐えられない人が増えてきた。
20世紀のSFは、人類は進化するものだった。
主人公は、肉体の枷を捨て、別次元の存在になることを選択するものだった。
が、
最近のSFでは、主人公は進化を選択しない。
今、Netflixでスタートレック TNGを見てる。
ピカード艦長が「人類は進化した」と言う。
一方で、ディスカバリーという新シリーズも見てる。
「まだ」進化していない人類を描こうとしているようだ。
それは、時代を反映しているのだろう。
ブラック化した、未来への展望が見えない時代を。
便利さは、エネルギーと肉体を酷使した。
それは、進化していない人類には、耐えられない量になった。
そして限界を迎えようとしている。
だけど、希望はあるんだよ。
インターネットだ。
インターネットのメッセージ機能は、仕組み的には非同期コミュニケーションになっている。そうするしか無いからだ。
だけど、それは一般には理解されなかった。
リアルタイム性を求められた結果、通信速度と容量を増加させ、擬似的に同期コミュニケーションができるようにした。
だけど、1人の人としての処理速度は増加していないから、増える情報量に対応できなくなってきた。
友達とのコミュニケーションは増え、仕事量は増える。
だけど、相手の反応が遅いのは我慢できない。
それが、仕事量を増やすことになっているとも気がつかずに。
だけど、気がついている人は非同期コミュニケーションに気がつき、対応するようになってきている。
マニャーナの法則というのがある。
「明日できることを今日やるな」と言う。
先送りは良くないものとされた。
仕事は完璧を求められた。
だけど、1人の人の時間リソースが限られている以上、どこかで区切りをつけるしかない。
「今日やるべきこと」は、すでに多すぎるのだ。
それが分からず、今日中に終わらせなければという考えは、まわりまわって、あなたの仕事量を増やすだろう。
GTDという仕事術がある。
「頭の中にあるものを全て追い出せ」と言う。
メモというのは、典型的な非同期コミュニケーションだ。未来の自分との。
記憶力に頼っていては、もはや増えすぎた情報を処理しきれない。
処理すべきことを忘れ、メールによって指摘され、そして残業をすることになる。
仕事が減らないという人は、自分が仕事を増やしていることに気がついていない。
同期コミュニケーションと非同期コミュニケーションの違いがわかれば、電話する前にメールで予約する意味もわかるだろう。
相手のところに出向くなら、事前に場所と時間を予約する。
会議だって、部屋と時間を予約する。
電話は、場所の制約は少なくなるけど、時間は同期している。
なら、時間の予約は必要になる。
1人の処理量が決定的に増やせない以上、時間リソースは、もはや予約が必要なものだ。
同期コミュニケーションしかできないから、僕たちは未だに通勤しなきゃいけない。出張しなきゃいけない。
移動は、貴重な時間リソースを無駄に消費させるだけなのに。
そして、交通システムも、もうキャパシティの限界にきている。
速度向上の結果が、余暇を増やすのではなく、仕事量の増加にしか繋がらないのは、同期コミュニケーションしかできないからだ。
今こそ人類は、非同期コミュニケーションを身に付けて、進化しなければならない。
でなければ、ブラック化の果てに、増大した情報量に殺されるだろう。
インターネットは、世界を変えなかった。
違う。
インターネットは、世界を変えた。
だけど、進化していない人類は、まだそのことに気がついていない。
黒髪強要問題への反応
今の学校教育は、間違えることが許されていない。
間違えないように、おとなしく、冒険せず、示された道を踏み外さないようにする。結果、経験が足りず、幅がないから、大学とか、就職とか、環境が変わった時に対応できない。
「真面目」であったがために、面白みもなく、能力が低い人間が育つ。 「真面目さ」がが学校を卒業するとかえって不利なことに気が付き、不要な能力のように言う人もいる。 「まじめ系クズ」というのは、そういう環境に最適化しちゃった結果なんだろう。もちろん地力があれば乗り越えるんだろうけど。
先生がもっと間違いを認めるような教え方をしないからだ、という人もいる。けど、黒染め強要を考えると、先生も、間違えることが許容されていないんだろうな、と思う。
間違えないようにするから、決められていると思っていることを、決められていると言われている通りにやろうとする。そうして、間違える。
さて。先生に間違いを許容させないようにしているのは、何なんだろう?
被災者の「千羽鶴はいらない」に激怒する人達 - Togetterまとめ
思いを届けたい、というんだけど、千羽鶴は「思い」じゃないだろ。
ああいうモノのは、送るものじゃなくて、日常的に目につくところに飾っておくものだ。そうすると、それを目にするごとに、鶴を折った思いを思い出す。
やってみればわかるけど、これは結構辛いことだ。長期になればなるほど。
だけど、それが「思いを届ける」ということなんだと思う。辛いけど、思い出して、その先を考える。辛いからこそ、意味がある。
それを被災地に送ってしまったら、いつ、どうやって、あなたはあなたの思いを思い出すんだい?あなたの思いはどこに行ってしまうんだい?
それは、思いを届けるのとは裏腹に、思いを捨ててしまっているだけじゃないのかい?
"ゲームだってリセットを押すときは電源切るときじゃねえ もう一度トライするって時だもんなあ"
ゲームだってリセットを押すときは電源切るときじゃねえ もう一度トライするって時だもんなあ : 島本和彦マンガの名言・迷言集【アオイホノオ・吼えろペン】 - NAVER まとめ
(via otsune)
だなぁ。
「人生はリセットできない」なんて言われるけど、「リセットする」のは、まだやる気があるということだ。やる気が無くなるなら、電源を切る。
だけど、人生、なかなか電源は切れない。時に切っちゃう人もいるけど。でもまぁ、ほとんどは口だけだよね。
そうして、電源を切れずに、リセットもできずに、ゲームオーバーの画面を見続ける。人生はクソゲーだとほざく。
リセットなんて、バンバンすればいいんだよ。
でも、もうリセットする気力がないのなら、ゲームを変えろ。別のゲームを始めろ。
人の数だけ人生がある、というくらいなんだから、人生というゲームは、あなたが行き詰まった、その一つだけじゃない。
(元記事: matome.naver.jp (edieeleeから))
"最初のアイデアを出すことを0→1だと考えがちだが、それは0.001くらいで、必要なリソースを集めて0.01、試作が動いて0.1、試作の問題点を直してリリースしてようやく1、という気がしてきた。そして1にまで育てておかないと、ランダムなタイミングでfloorされて消滅する。"
https://twitter.com/nishio/status/672364950430466048
(via bgnori)
「1まで育てておかないと、floorされて消滅する」ってのは、なんか分かる。
Ver.0.999とかで、なかなかVer.1にならないソフトウェアがあったりするけど、あれが嫌いなんだよね。
最初のアイデアを、使えるところまで持って行って、とにかくリリースして、Ver.1.0を名乗る。あとは、使っていきながら、ブラッシュアップでいいと思うんだよね。その過程で、既存のプログラムがダメになるなら、Ver.2 → 3 → 4と上げていけばいい。
(edieeleeから)
PDCA サイクルはどこかおかしい気がする
PDCA PDCA とみんな言いますが、僕はこれずっと何かおかしいと思っているのです。
ウィキペディアによれば PDCA とは、
- Plan(計画):従来の実績や将来の予測などをもとにして業務計画を作成する
- Do(実施・実行):計画に沿って業務を行う
- Check(点検・評価):業務の実施が計画に沿っているかどうかを確認する
- Act(処置・改善):実施が計画に沿っていない部分を調べて処置をする
であって、これをサイクリックに繰り返すとのこと。
これの何がおかしいと感じるかというと、最後の Act のところです。
まず計画を立てて、それを実行してみて、その結果を評価する。ここまではいい。
けれど、その次に評価の結果を見て改善処置をする Act というフェーズが、他の Plan Do Check と並列になっているのはおかしい。もしこれがサイクルではなくて、ウォーターフォールとしてはじまりと終わりがはっきりしているのであれば、
計画 → 実行 → 評価 → 改善
というフェーズ進行は分かる。
けれどこれをサイクリックにやるとすると、こうなる。
計画 → 実行 → 評価 → 改善 → 計画 → 実行 → 評価 → 改善 → 計画 …
これだと、改善した後にまた計画することになる。じゃあその計画って何? 改善したことと次の計画との間に繋がりがないんですよ。
もし改善した結果を更に評価して、次の計画のインプットにするのであれば、改善の後に「評価(Check)」のフェーズがもうひとつ入らないといけないですよね。
計画 → 実行 → 評価 → 改善 → 評価 → 計画 …
で、もしそういうふうに改善の後に評価が入るなら、Do と Act はどちらも「やる」という意味だから、要するに、
計画 → 実行 → 評価 → 計画 → 実行 → 評価 → 計画 …
というふうに、Plan Do Check の三つで十分ですよ状態なわけです。
じゃあなぜ、Do と Act という、同じような意味の言葉をあえて区別しているのか。
普通に考えると、継続する事業において、計画と実行をサイクリックに繰り返して行くというのはまああたりまえのことです。
その際、実行した結果の評価というのは、次のサイクルのインプットになるわけです。つまり、
Plan → Do → Check → Act
という場合の Act とは、次の「Plan → Do → Check」一式を指しているべきだと思うのです。
ニュアンスとしてはこんな感じ。
Plan → Do → Check → [Act = Next PDC]
だから PDCA サイクルじゃなくて、PDC サイクルと言えばいいんじゃないかと思うのです。
Act というフェーズは、PDC と並列ではなくて、再帰的に PDC 一式を呼び出す変数と考えると、納得がいく。そう考えてよいなら、これはまあアジャイル的なプロセス感というか、ここに書いたようなシンプルなイテレーション感として、デザインのプロジェクトにもフィットすると思うのです。
それともこれ、何か計画を実行するなら一度だけそれを修正するタイミングを織り込んでおけよ、という話なのかな?
例えば毎年事業計画を立てるとして、4月から実行して、毎年9月に一回見直せよ、という。
でもそれだと単なるルーチンだから、フィードバックループが成立してるとは言い難い。つまりサイクルじゃない。
これ、二重のサイクルなんだと思うんだよね。
つまり、日常的な業務として、Plan → Do というサイクルがあって、そのサイクルに対して、Check → Act をする。
ようするに、プロセスに対する改善が Check → Act なんであって、計画(Plan)の修正ではない。計画通りにいかなかったから計画を変えるのではなくて、計画通りにいかなかった原因を調べて(Check)、計画通りにできるように改善するのが Act。
Plan → Do と
Check → Act は並列して動く、と言ってもいい。
これを、Do の後に Check → Act だと考えると、なかなかサイクルが回らない。
毎年の事業計画が Plan なんだとして、年度末に Check → Act → Plan なんてやってられない。そんなことをしている間に、次の期になってしまう。だいたい、計画通りにいかなかった原因なんて、そう簡単にわかるものじゃない。
Check → Act は常に動かす。そうするしかないから、アジャイルという話になってくる。
"もしまた自分の人生で何かに挑戦してみたくなったら、
迷わずおもしろいほうを選んで下さい。"
死神さんが健太に伝えたかったこと――大川弘一「おかねのかみさま」 | 日刊SPA!
「面白い方を選ぶ」とか、「好きな方を選べばいい」」とか。人生の選択におけるアドバイスがある。
私にとっては、「面白いこと」、「好きなこと」というのは明らかだ。いや、正確に言えば、明らかになっていないこともあるけれど、それがどこにあるのかは分かっている。自分の内だ。だから、内省すれば、いずれ答えは得られると思える。
だけどこれは、私が内向的だからなんだろうな。
・内向的:元気を回復するには、1人でいることが必要。人付き合いで消耗する。
・外向的:元気を得るには、人付き合いが必要。一人ぼっちになると不安になる。
外向的な人は、他人との付き合いにおいてエネルギーを得る。であれば、「面白いこと」、「好きなこと」を考える時に、他人を、具体的には今付き合いのある人を考慮してしまうのではないか?
「あの人に面白がってもらえること」、「あの人も好きなこと」を、「自分が面白いと思うこと」、「自分が好きだと思うこと」と誤認してしまうのではないか?
みんながやっていても、面白いと思えないことはある。
付き合いたいと思う人もいる一方で、付き合いたいと思わない人もいる。
真に外向的で、他人が面白いと思うことを、自分も本当に面白いと思えるならば、おそらくは「面白い方を選べ」なんてアドバイスはしない。
自分が面白いと思うことは、本当は、自分の内面にある。他人の評価じゃない。もっと内発的なものを信じないと見つからない。
(元記事: nikkan-spa.jp (mitaimonから))
"1994年に、オンラインの古書店を始めることを思い立って、そのことを当時勤めていた金融会社の上司に相談したんですね。「散歩しながら話そう」と言うので公園を歩きながら話したのですが、彼はわたしの話を聞いて、こう言ったんです。「面白いアイデアだと思うよ。ただし、すでに立派な仕事と肩書きをもっている人がやることかどうかは疑問だな。2日間、よく考えてごらんよ」。で、考えたんです。妻とも相談しました。そのときにこう思ったんですね。 自分が80歳になって人生を振り返ってみたとしたら、仮にこの新しい事業に失敗したとしても、さほど後悔はしないだろうと。けれども、これをやらずにいまのところに勤め続けたらきっと後悔するだろうなって。つまり、人生の最も深い後悔は、Commissionによって生じるのではなく、Omissionから生じるんだと。怖がったり、不安がったりして何もしないことが、きっと後悔を生むんじゃないかと。"
Amazon CEO直撃インタヴュー。ジェフ・ベゾスが語る、 ファッション、未来、eBookとテイラー・スウィフト « WIRED.jp 世界最強の「テクノ」ジャーナリズム (via kotoripiyopiyo)
"少なくとも、今まさに自分は価値の無い人間だ、自分の人生は無意味で辛いものでしかないという自己嫌悪感と戦っている人間には、自分で自分を受け入れろという言葉は、ある種の「切り捨て」でしか無いと思う。"
「お前から無意味を取ったら何が残るっていうんだ? 安心しろ、お前は無意味なんだよ、それでいいんだ、そのままでいいんだ」
(via kanakana)
(via gkojax-text)
(via edieelee)
「切り捨て」か。なるほど。
そうやって、切り捨てる一時のツラさを許容できないから、自己嫌悪なんて長く引きずる辛い状況になるんだけどね。
自分には価値が無いと思っているから切り捨てられないのだろうけど、そこにこだわっていると、他が見えない。とっとと切り捨てて先に進むのが吉。
自分が価値があると思っていることができないから自分には価値が無いと思っている奴が価値があると思っていることに価値があるはずがない。
